3月。冬の厳しい寒さも峠を越え、近づく春の足音を感じられる季節。
だがそんな日和とは裏腹に、少年の心には寒風が吹き荒んでいた。
「ああ、とうとうまたこの日がやって来たのか……あの地獄の祭典が……!」
中学2年生の桃山三月は、教室で頭を抱えたまま呻いていた。顔色は青く、ガチガチに歯を食い縛り、小刻みに体が震えている。
「み、三月君……? どうしたの、そんなこの世の終わりみたいな顔して」
「どうもこうもない! 来ちゃったんだよ、恐怖のイベント『ひな祭り』が!」
「はぁ……?」
何気なく声をかけた一人の女子が、ポカンと口を広げる。
三月の彼女でクラスメイトの春日美々。マイペースでほんわかした表情が可愛い、素朴な雰囲気の女の子だ。三月とは今年に入って付き合い始めたばかり。
「何でひな祭りが恐怖なの? 可愛い行事じゃない。それに三月君は男子なんだから、ひな祭りなんて関係ないんじゃないの?」
「それが大アリなんだよッ! もう生まれてから今まで、年に一回確実にトラウマを刻みつけられてきたんだから!
「トラウマ?」
次々と飛び出す物騒な言葉に、美々がキョトンとする。
「あー、とてもじゃないけど今日は家に帰れない……ねえ美々ちゃん、何とか今日一緒にどっか行けない?」
「うーん、ごめんね。今日は先に約束が入っちゃってるから」
「そ、そう……」
三月のすがるような眼差しも通じず、デートに誘うことはできなかった。
「はあ~、帰りたくない……」
トボトボと重たい足取りで家路につく三月。腹の底から溜息を漏らし、ガックリと首を前に傾ける。だがそれでも寄り道で時間を潰すことなく、真っ直ぐ自宅へ向かう。
「姉ちゃんたち、逆らったら怖いからなぁ……」
せめてデートという口実があればよかったが、その道も塞がれて逃げ場がない。
三月はどんよりと曇った顔で自宅に帰り着いた。
「……ただいまぁ~……っと」
息を潜めるようにこっそり家へ上がる。その動作はまるで、帰宅というより空き巣にでも入っているかのようだ。
実際、家の中はシンと静まり返り、人の気配が感じられない。
「ホッ、姉ちゃんたちはまだ帰ってないのかな。それなら……」
三月は心持ち明るい顔になり、小走りに自分の部屋へと向かう。そのまま自室に閉じ籠もり、何とか嵐をやり過ごそうという算段だ。
「あんな酷い目に遭うくらいなら、最悪今日はご飯抜きでもいい!」
そのまま音もなくドアを開けて体を忍び込ませると、流れるような手つきでドアを閉めて施錠した。
「ふう~う、これで何とか――」
「「お帰りなさい」」
「ッ!?」
ホッと一息ついた瞬間、背後から複数の声がした。それは三月が聞き慣れた、そして今最も聞きたくなかった声。
三月は背筋に冷や汗を流しながら、恐る恐る振り返った。
「お帰りなさい、三月ちゃん。待ってたわよ」
「ちゃんと真っ直ぐ帰ってきたね? エラいエラい」
「……姉ちゃんたち……」
並んで微笑む二人の少女。おっとり美人な女子大生・雛乃と、ボーイッシュで快活な女子高生・弥生。ともに三月の姉である。
「……まさか、僕の部屋で待ち構えていたとは……」
「アンタの考えることなんかお見通しよ。さあ観念してコレに着替えなさい!」
弥生が実にウキウキした様子で紙袋を突き出してくる。それを見た途端、三月は怯えたようにブンブンと首を振った。
「嫌だよ! 僕もう中二だし、もうさすがに――」
「問答無用ッ!」
「ひゃあぁッ!?」
三月が思わず逃げようとした瞬間、すかさず弥生の腕が体を絡め取った。そのままベッドに押し倒されると、長女の雛乃の手も加わって見る間に衣服が剥ぎ取られていく。
「いっ、嫌だぁ~ッ!!」
十数分ほどして、桃山家の居間に三人の少女が集まった。一人は恥ずかしさで顔を真っ赤に染めて、そして二人はその姿を見てご満悦の表情で。
部屋には大きな赤いひな壇がデンと場所を取り、立派なひな人形がズラリと並べられている。
「何で毎年、こんな格好しないといけないのさ……」
「仕方ないでしょ、ひな祭りは女の子のための行事なんだから」
「そうよ。男の子の三月ちゃんを除け者にするわけにはいかないから、女の子の格好をしてもらうのは仕方ないわ」
「そんな理屈あるかぁッ!」
精一杯の声で怒鳴る“少女”。それは先ほどまで学生服を着ていたはずの三月少年だった。
元々三月の容貌は中性的、もっと言えば女顔であった。くりくりとした瞳で上目使いに見られたら、一瞬ドキッとする男子は多い。体格も小柄で華奢でなで肩で、ちょっと大きめの女物の服なら難なく着こなせてしまう。
そこへもってきて、今や中学制服のブレザーにスカートという出で立ちで、全く不自然なく女の子らしさを醸し出している。いくら叫んでみたところでその姿には迫力も凄みもなく、かえって必死な女の子のいじらしさが強調されてしまう始末だ。
ちなみに制服は、同じ中学の卒業生である姉からのお下がりである。
「ハァ……何でいつも僕ばっかりこんな目に……。僕ひな祭りなんて参加したくないのに」
「な~に言ってんの。最初にブーたれたのはアンタでしょ? 『お姉ちゃんたちばっかりズルい』って」
事の起こりは三月が小学一年生の時。物心ついたばかりの三月は、自分が除け者にされる“男子禁制”のイベントが不満だった。それを受けた姉二人は、あろうことか「じゃあ女の子になっちゃえばいいよ」と言い出し、三月にお下がりの服を着せて強制参加させてしまったのである。
「最初は嫌がるアンタに無理矢理女装させるのが楽しかったんだけど……最近はもうマジでヤバいわ、フツーにハマりすぎてて」
「ヤバいのは姉ちゃんの頭だろ……」
背筋を丸めてうなだれる三月。だが表立って反抗する術はない。生まれた時からずっと姉たちに頭を押さえつけられて育ってきたため、未だに二人には頭が上がらないのだ。
今となってはもう、姉たちは半分以上が弟の女装目当て。そんな暴走する二人を止める手立てが思い浮かばない。
(うう、何で世間にはひな祭りなんてモノが存在するんだろう……!)
三月はやり場のない怒りをぶつけるように、鎮座するひな人形たちを睨み付けていた。
「あらあら、そんなふて腐れた顔しないで楽しみましょうよ。せっかくの可愛い顔が台無しよ?」
「可愛いなんて言われても嬉しくないんだよう!」
雛乃が宥めるように優しく頭を撫でるが、三月の苛立ちは収まらない。
「だいたい、男の僕がこんなモノ楽しめるわけないでしょ!」
「ノリが悪いわねぇ。でも安心しなさい、この弥生お姉ちゃんがアンタのためにスペシャルゲストを呼んどいたから!」
「ゲストぉ……?」
三月が露骨に訝しがる。すると、ちょうどタイミングを合わせたように玄関のチャイムが鳴った。
「おっ、来た来た! はいはーい!」
軽い足取りで弥生が玄関へ向かう。
そして「さあさあどうぞ」の声とともに連れてこられたのは――
「こ、こんにちは……三月君」
「ッ!? 美々ちゃん!?」
三月の目がまん丸に見開かれた。
姉たちの拍手に迎えられて登場したのは、三月の彼女の春日美々だった。
その姿が視界に入った途端、三月は火を噴き出す勢いで顔を沸騰させた。ただでさえ恥ずかしいばかりの女装なのに、よりによって最も見られたくない相手に見られてしまったのだから。
「先約って……まさか、このことだったの……」
「ご、ゴメンね。騙すつもりはなかったの。ただ……」
「ただ?」
「三月君……とっっっても可愛いから! どうしても生で見てみたかったの!」
興奮気味に話す彼女。よく見るとその手に一枚の写真が握られていた。
「コレって……あああ! 去年のヤツ! 何で美々ちゃんが持ってんの!?」
「アタシがあげたの」
横からしれっと答える弥生。
写真に写っているのは、ちょうど一年前のひな祭りの様子。今と変わらず満面の笑顔の姉二人に挟まれて、これまた今と同じく泣きそうな顔をしている三月。この年はブラウスとスカートという格好だった。
「最初は三月君だって分かんなかったくらい、凄く可愛かったから。それで弥生さんに『ウチのひな祭りに来ない?』って誘われて」
「……」
三月は既に発する言葉を失っていた。羞恥心やら絶望感やらで頭がいっぱいになり、うまく言葉をまとめるような余裕はない。
「あっ、えっと、ホントに可愛らしくて素敵だよ? からかってるんじゃなくてホントに! その制服姿で学校に行っても、多分みんな三月君だって分からないんじゃないかな? 女子の中に入っても違和感なさそう!」
「あ、あはは、ありがと……何のフォローにもなってないけど……」
美々が慌てて言い繕うほどに、三月の男の尊厳は大きく削り取られていく。だが本人に悪気があろうはずもなく、何より彼女に余計な気を遣わせていること自体が申し訳なく感じるため、三月もキツくは言い返せなかった。
その後はテーブルのお菓子や飲み物を囲んでちょっとしたパーティーが行われた。和やかに談笑する女子三人を横目に、本来男である三月はアウェー感全開。終始引きつった笑顔で、何を食べても飲んでもまるで味がしなかった。
その夜。家族全員が寝静まった夜更け、三月はそうっと居間に足を踏み入れた。
夕方に悪夢の宴が開かれた場所。テーブルの飲食物は既に片付けられていたものの、祭りのシンボルたるひな人形だけはまだ堂々と飾られていた。恐らく明朝には姉たちの手で撤去されるであろう。
そのひな壇の前に三月が立った。
「もう今度という今度は僕も怒ったぞ。女装させられるだけでも嫌なのに、よりによって美々ちゃんに見られるなんて……!」
並んだ人形の中から乱暴に一体をつかみ取ると、そのまま玄関から外へ飛び出す。
まだ肌寒い夜道をしゃにむに駆けると、やがて町外れの大きな川が見えてきた。
「この辺でいいや。ていっ!」
三月は河原から水面に向かっておひな様の人形を放り投げた。ボチャンという音を立て、人形が川の中へ沈んでいく。
「フンッ、いい気味だ。これで明日は……」
姉たちの困る顔を思い浮かべてほくそ笑む。
ひな人形はすぐ片付けないと結婚が遅れると言われる。そうでなくとも、大事な人形がなくなれば姉たちが困るのは明らかだ。何せ長女雛乃の誕生以来二十年近く続いてきた行事なのだから。
面と向かって反抗できない末っ子のささやかな報復であった。
「僕は悪くない。そもそもひな祭りなんて行事があるからこんな目に遭うんだ」
だが、こんな小さな行動がもっと大きな災厄を呼び込むことになろうとは、当の三月には知る由もなかった。
(つづく)